「リアル社会で生きること」に少し「息苦しさ(生き苦しさ?)」を感じているであろう、あなたに。
ノウハウの話ではなくて、僕が思う「他者との交流を喜びに変えるための本質」を書きます。
読後に少しでも「コミュニケーションを他者と取ることへの恐れや億劫さ」が緩和されれば幸いです。
なぜなら、「コミュニケーションが苦手です」と信じ込み、殻を破れなかった僕が見つけた「コミュニケーションの本質」なんですから。
是非、最後までお付き合いをお願いします。
0.ピエロをプロデュース。コミュニケーションツールの「今」を考える前に。
1.メールですら、会話の出来ない僕ら。
2.「リアル社会」と「バーチャル社会」の線引きはいったいなんなのか?
3.それでも抗う。「リアル」こそ五感で感じる「体験」が出来る冒険だ。
0.ピエロをプロデュース。コミュニケーションツールの「今」を考える前に
僕は「酒を飲む」ときも「飲まずに過ごす」ときも、前提として「自分を保ちながら」過ごすことを意識しているので「勢い任せの夜」を過ごした経験は指折り数えられる位しかありません。
とは言え、その「指折り」は「自分を見失わないように過ごした夜の果てに起こってしまったアクシデント」であり、「強烈」すぎて、今思い出しても(思い出せるくらいの)「ありえない」ことばかりで、穴に入りたい。いや、山に籠りたい。ことは「たーっくさん」あります。
「決断」や「実行」の最終的な原動力となるものは「その場の勢い」が大きいのも確か。
論理的にこの「その場の勢い」を生み出すのは難しくて、「勢いの生み出し方」として「成功体験がイメージする」など、「頭の中をめぐり巡らせ」て「えーーーーい。。。」とやっちゃっても、空回りしてしまうこともありますね。
ただ「やってみた」が結果として、功を奏すことは「稀」ではなくて「必然」だったりします。
決して無駄骨にはならないんです。
ちょっと話が飛んでしまいますが「自己肯定感が低いか高いか」は「幸せになれるかどうか」に大きく影響すると言われています。
「これくらい出来なければダメ」と自分を律していれば、「高みに昇る事」が染みつき「目標達成水準に到達出来ない自分」を責めるでしょう。
でも、「これくらいの失敗は誰にでもあるよ」と自分を許せば、出来ない自分も愛せるかもしれません。
僕らが幸せになれるかどうかは「誰かから与えられること」に左右されるばかりじゃないです。
僕が僕にしてあげること、それは「かっこ悪い自分への寛容さ(自己肯定感の向上。敷居や物差しの高さの緩和)」だったりするのかもしれません。
「失敗をしても立ち向かう姿が応援されて、万人に対して顔色を使い分けない姿勢が愛されて、努力の結果つかみ取った成功を称えられるキャラクター」
思い浮かぶのはなんでしょうか?
「ピエロ」です。僕はそうありたい。
ただのシンボルなんかではなく、調和させるためのオブジェクトではなく。
場を構築して、場面転換さえ誘導するピエロ。
やりがいありますよ。
大事な事。それは「演じる(踏み出す)。そして演じ切る(やりきる)」ことです。
僕には12人の部下がいて、曲がりなりにも「マネージャー」と呼ばれます。
さらに、事業所全体では300人を超える従業員がいて、僕が取り仕切る管轄(システム)の中でトラブルが起きれば、一斉に僕に対して問い合わせが入ります。
そんな時、四の五の言っている場合ではなくて「自分の役割を果たす=求められるものを演じ切る」力が培われたのだと思うんです。
演じ切るは「建前」と捉えてもらっては困ります。
「俳優」さんはスクリーンの中で建前で「演技」をしていますか?
いやいや、本気ですよ。
「与えられた役割を果たして」います。
見ているものが一番、感情移入しやすいように「演じる」のです。
だから、僕は僕に対してかけられる声に日々、真摯に答えていかなくてはならない。
だから、彼(デブ)にもそういう自覚を持って貰いたい。
なんだかんだ言いながら、進化が垣間見れている。だから心を鬼にしている。
無視はしないし、会話はいつでも真剣。
1.メールですら、会話の出来ない僕ら。
メールは「情報のやり取り」から「感情」をとっぱらったもの。
元来、手紙の頃からそう。
唯一、手紙から電子メールに対して失われたものとすれば「肉筆」であることの「温かみ(イメージでしかない)」と、「書き手の手紙一通書くのにかけた時間(労力)を尊いとする印象」。
「好き」でも「嫌い」でも「愛している」でも「憎たらしい」でもなんでもいい。
言葉で記して渡す時には、いったん「自分の中」から出た「言葉」です。
身体と心の中でモヤモヤしているものを「言葉」にする。
その言葉には「感情」を寄り添わせることが出来ないので「無感情」の「単語の羅列」にしか受け取られないのは、いたしかたない。
メールを送ったから「情報伝達が出来ている」というのは随分な「思い違い」です。
「わかって貰えたら→わかって欲しい→わからせたい」この3段階の温度感を伝えたい。
「わかって貰えたら」は願望。(他力本願)
「わかって欲しい」は希望。(自己稼働中)
「わからせたい」は渇望。(完全燃焼中)
「本気の度合い」と表現するとわかりやすいかも知れない。
「本気でやりたいこと」はなんなのか。
軸を立てるまでには時間がかかるし、自信を持つことも大事。
「僕が見ている的は、正しい」
確信できると本気になれるし、絶対にぶれない。
2.「リアル社会」と「バーチャル社会」の線引きはいったいなんなのか?
ここまでこのエントリーを1800文字を書きましたが、HEAD(へっど)という人間が書き残したか、ゴーストライターがキーボードをパチパチと打っているか、「結果としてのエントリー(記事)」からは誰も判別できません。
確かに「HEAD(へっど)」が、この言葉を記事にしました。と証拠を残せるものは何もありません。
14歳の時に「新世紀エヴァンゲリオン」という作品に出合って「不完全なモノ」を「補い」、「完全体にする」と言う概念・思想を知りました。
「永遠」の達成には生命体である以上「不老」と「不死」のキーワードを背負う現実を抜本的に崩さなくてはなりません。
劇中で出てくるシーンのように、「相手を食らい融合をしていくこと」が「完全体に近づく方法」とは信じがたいことですが、「可能性の高い手段」として「取り込む」ことは、納得のいくことのようにも思えます。
ただそれが「絶対の方法か」は別です。
さて、「Twitterなどのオープン型SNSのがちやほやされる(と言うと棘がありますか?)」 理由の一つとして「匿名性の担保」があると確信しています。
クローズドのSNSアプリ(LINEなど)より、オープンなSNSのアプリの方が「言論」は「自由」で「刺激的」だと僕は思います。
なぜならば「言葉」に込められた感情が「裸に近い」から。
手軽だからとか、ユーザー数が多いからとか、賛同を得られるからとか「オープンなSNS」を使う理由は様々でしょう。
その中で「匿名性の担保」は大きいんじゃないかなと。
ただ「担保」とはなにも「犯罪に結びつきづらい」なんて、甘っちょろい「匿名性」のことではありません。
むしろ、ネットワーク内では、あらゆるログ(記録)が残っていますから、行動パターンは読まれると思った方がいいのではないでしょうか。
「匿名性の担保」とは「なりきれる(裸に)自分(の解放)」なんじゃないかな。
「人生は楽しい」。
このバックグラウンドが重要です。
現実社会のウェイトの高い「人生」か、非現実社会のウェイトの高い「人生」か。
「どちらの社会」を生きていようが肯定も否定も僕はしませんが、「線引き」って自分で引けばいいんだけど、「引くにあたっての目の付け所」を教えてくれる処(学校や授業やセミナー)ってまだまだないですよね。
3.それでも抗う。「リアル」こそ五感で感じる「体験」が出来る冒険だ。
「メール<電話<リアルで対面」の図式がコミュニケーションの濃度・強弱の段階として変わらないのは、「今この場で起こる事」に人間は「まだまだ信頼」をしているのでしょう。
まだまだ、「メール」や「SNS」が濃度の高いコミュニケーションのツールとして定着するには時間がかかるかもしれません。
そんな中「メールですら会話ができない」ことに僕は疑問や憤りを感じせずにはいられません。
つまり「既読スルー」や「既読もしない」ことが「メールやSNS」のコミュニケーションでは可能だから。です。
受け取ったメッセージに対して、「こちら側も感情が出てくる。だから返信する」が理想の姿。
でも、そうならないのは「そもそも、大した要件ではないのだろうから、読まない。読んでも感情を持てないので返信はしない」が実態ではなかろうか。
「発信者側は常に本気でメッセージを送っている」かもしれません。でも、まだまだメールやSNSでは間接的過ぎて、リアル感が薄い。
「5分時間をくれ!俺の話を聞いてくれ(声から伝わる情熱を。。。古?)」なら、相手の感情に対する強制力はないですが、「拘束力」はあります。
言ったことに対するリアクションを相手の顔色や返答や態度で垣間見れます。
メールやSNSはそれがないね。
「いいね」とかやっているけど「本当にいいね」と思っているかは、よくわからない。
「受け手の情報を選択する権利や技術の取捨選択」が行われやすいコミュニケーションツールでしょう。
リアルタイムで発信できるし、受ける側も「自分のペースが担保」されるので使い勝手はいいかもしれない。
でも議論とか、情熱とか、発信側が提起する際で形となった「言葉」が宙に浮いてしまいがち。
やっぱり最終的には「人」と「人」の交差が、まだまだ優良で有効なのかもしれません。
コミュニケーションは、エネルギーを消費します。
でも、一息ついたときに今日、対話をした人の顔が浮かんで、「自分はよくやった」「相手も嬉しそうだった」と噛みしめられることが楽しい。
「なんの為に、オマエは仕事をするの?」 と、折に触れ聞かれます。
それだけ、僕が日々やっている仕事は滑稽なんでしょう。
一見、なんの価値もないように見えることでしょう。
「なんの為に、オマエは仕事をするの?」 と、折に触れ聞かれます。
答えは一つだけ。
クライアントから「ありがとう」と笑顔で言ってもらえるため。
床に落ちているゴミを拾うことだって
同僚の肩を叩いて「お疲れさま」と声をかけることだって
想定外の時間をレジスターの打刻がかりに割り振られたって
総合スーパーとディスカウントスーパーの違いをお客さまに聞かれた時だって
アイディアを求めらた時に、意見を率直に言うことだって
パワハラ上司から期限なしの仕事を任されて即日こなした時だって
全部、理由は一つ。
「触れ合った人から、ありがとうって言ってもらうため」
疲れが飛ぶのは案外単純な動機付けなんです。
mission complete!