タイトルを考えて「物事を書く癖」から、物事を書いてから「タイトルを浮かべる癖」がついたようです。
まずは、走りながら書いてみよう。
呼び方は会社によって変わるのかもしれないのだけど、「所属長(事業所のトップ)」からのオーダーで、【「会社」と「組合」】の枠組みを変えた、「何かを一緒にやろう」と声をかけて貰えました。
「あれをやれ、これをやれ」と「何か」が降ってくることは「僕は大っ嫌い」。
疲れるから。うん。疲れる。
理由は「あれをやれ、これをやれ」は、「数字上」や「外面」のだったりするから。
事業所の「さらにその上の何も現場を知らない、お偉いさん」の為に、「あれをやれ、これをやれ」。
こんなことで、「やる気」なんて出るわけがない。
「全面的なバックアップ無し」に、数字や写真として「残る姿」を求められてする仕事はごめんだな。あー社畜。社畜。
そもそも「社畜なんて言葉」が大っ嫌いだ。
と、言うことで最近職場でやっていることは、もっと深掘りしたいので、次の機会に譲るとして今日も一番幸せであった「パートナーとの時間」から感じたことを素直に書いてみる。
今日の目次は、、、これだーーーー!
【目次】
1.本音で語ると、「変人」なのか?
2.「摩擦」とは悪い事ばかりなのか?
3.終わりに
1.本音で語ると、「変人」なのか?
最近振舞い方が「本音」になってます。
言葉遣いが、「去年」より「汚い」。
僕の2018年の目標は「本音で活きる事」ですが、それによって「失われるもの」があるのは「怖い」これは事実です。
「積極性」とか「同調性」とか、立ち振る舞いは何も「変わっていない」と思いますが、「本当のこと」を口に出してます。
それにも理由はあって「僕が本音でいること」を好きか嫌いとか、ましてや「うっとうしいな!」と思っているかもしれないけど、やっと若かりし頃の勢い任せではなくて「人として好き」な人が出来たこと。
そう。
中学生の頃のような「ワクワク・ドキドキ」を毎日くれるあのパートナーの事です。
お互いに「にゃ」なら「にゃ?」、「おろ」なら「おろ?」。と反応がこれからも自然に出来そうな関係。
音にしかなっていませんが「その音の意味」を探る・知ろうとする、そんな二人がいます。
「正直言うけど、本気になって、本音で物事をしゃべる時があるアナタを『から回ってるようにしか見えない』っていう人がいる。」と、言われた時があった。
昔なら、「なんで、こんなに頑張ってるのに、『自分が万人に受けいれられないんだ!』」と、彼女に「八つ当たり」なんて子供じみたことをしたかもしれない。
でも、素直に理解できています。今は。
「そんな時のストッパーになる」と言ってくれたからです。
ストッパーとは色々なイメージがあるけれど、その後対話をしているうちに、
「僕の本音(暑苦しさ?)」を冷ますこともあるでしょうし、「周りにとっては空回りしても、受け入れてくれる」と言う、心の支えになってくれることを「約束」してくれました。
本音で語る人は、第3者から観たら「滑稽」で「変」かも知れません。
でも、似た者同士。
彼女も「第3者からしたら変わってる人」かもしれない。
共通点があるなら、「欠点」をつつき合うようなことさえしなければいいかな。と思う。
正直驚いた。
彼女に対して「結婚」を言い出すような男は「僕以外にこれまで、いなかった」らしい。
「変人」であるパートナーも、(自称)「変わった人」らしく、これまで同じような「変な人」には、僕が現れるまで遭遇しなかったらしい。
告白の言葉が「結婚(を、前提に付き合ってを省いた)」して下さい。
我ながらアッパレな「変人ぶり」だった。
ただ「変人」とは「理解不能な事をする人」を指すだけで、「変態」とは違う。
僕と彼女の、価値観が僕ら以外の他人とは「一味違う」だけで、趣味がいつだつしているようなものではない。
お互いに対する「自分との共通点の探しあいっこ」で時間が過ぎている。
相手の価値観に近づこうとか、寄せようとかが僕にはない。
そこに理解を「ストッパー」と言う表現でココロを示してくれた彼女。
なんだか、「サポーター」だと、距離、感じませんか?
選手に例えば、サッカー選手とスタジアムのアリーナで応援するような距離。
サポーター側からは、「好きだけど近い距離まで近づくには離れてるし、近づく一歩を踏み出す手前」みたいな。
サッカー選手の様に僕は走り続けてきたし、サポーターの様に、「理由はわからないけど、頑張る姿を、応援したい!」と、いう距離のまま2年間を過ごしてきた。
本音として声援は感じるけど、もっと近い存在が、ずーっと欲しかった。
そんな彼女が口にしたのは「ストッパー(身近で、苦楽を分かち合う存在)」。
「ストッパー」は、僕がミスをしても、「ネガティブな部分」を止めてくれそうじゃないかな。と。
2.
男性と女性の決定的な違いは、、、、、Hな話になりかねないので、表現を考えますが、「同性では子孫を残せない」ことでしょうか。
男女の組合せだから「出来る」ことがある。
だからと言って、それが「自然に見えるように『結婚』をすること」がストーリーの展開として、「まっとう」なのでしょうか?
僕が「バツイチで子供もいる」ことを、彼女は承知している。
だから、付き合って(変人同士から恋人同士への転換)間もないけれど、一緒に過ごす時間が「いちいち幸せ」を感じる。
「男女の関係」を求めないスタンスを取りたい。
まだ「キス」をしていないし、「手を繋いだ」こともないし。
触れ合ったのは「スタバでお茶を飲んで「片付けるゴミ」を集めようとした時に指先が触れたこと」とか、
「お互いの歩くペースに合わせようと少し歩幅を変えた為にお互いの足を蹴ってしまうこと」とか「横にならんで「ちょっとだけ」身を寄せた時に感じる「こちん」と言った固い感触」とか。
そんなもの。
今の僕と彼女は「まーるい石」のようで、これから摩擦(コミュニケーション)を通じて「でこぼこ」に形が変わり、やがて「ぴたっ」とはまればいいな。と思う。
無理に「くっつけよう」と姿かたちを変える必要なんてないし、「ぴた」っとはまる為に「自分が必要なモノを削る」こともなければ「いいところを輝かせようと磨く必要」もない。
自然の流れで、いいじゃないか。それで、と思う。
3.終わりに
「大切にしたい人」が沢山いるほうがいいと、かつての上司が教えてくれた。
付け加えて「婚活しろよ」と。
その時には、彼女と「付き合う事」を予見していなかったし、恥ずかしい気持ちもあって「努力目標にする」と言ったような気がする。
活動とは無理をして「やる」もんじゃない。
本音でいて、それを「わかちあってくれる人」がいたらいい。
僕が熱くなればなるほど、「貴方の話は、よくわからない」と、きっぱり言ってくれる彼女。
昔だったら僕は「受け入れて貰えてない」と悲しがってばかりだと思う。
でも「僕は自然に変わった」。
結婚が到達点ではなくて「笑いながら生きることの繰り返し」に価値をもとうと思う。
彼女は、もう一つ約束してくれた「片足のひざ下を失う手術」をした僕の親友の「お見舞い」に一緒に行ってくれる。と。
「バカ(親友)」を好きな、「もう一人のバカ(僕)」を愛してくれそうな、彼女が「大好き」だ。